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書籍から喪失を学ぶ

喪失に対する考え方や勇気を学んだ本から一部を引用しています。

まさか妻が先立つとは

タイトル まさか妻が先立つとは---悲嘆のあとさき
著者 南 俊秀
経歴医学博士 滋賀医科大学麻酔学講座ほかの勤務を経て、1994年より南クリニック(福岡市)院長。ワイフワークとして、人間の生存を規定する摂理についてミクロとマクロの視点から探求する。
出版元 評言社
アマゾンで購入 まさか妻が先立つとは

喪失に対する考え方や勇気を学んだ内容のご紹介

Page 13
さよならが
言えなくて 1
水は枯れ矢弾も尽きた。私たちの戦いは今ここで終わったのだ。この時を迎える覚悟はできていたし、その時がいつ来るかも、ほぼ予測通りでした。まさか、マユミの死を覚悟していたということと、実際にそうなってしまうということの間には、天と地の開きが あろうとは、まだこの時には知らなかったのです。私は、まるで海原に浮かぶ小船の上に座り、陸地での出来事にはまったく無関心で、ぼんやりと遠くを見ているような感覚でした。今にして思えば、この静かなひとときは、今まで経験したことがない悲嘆の嵐の 前触れだったのです。私たちは、これから相当長い月日を、この嵐の中で生きていくことになりました。もちろん、これから病室にやってくる子供たちも私と同じで、この悲嘆の嵐をだれも予想していなかったでしょう。

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Page 24
さよならが
言えなくて 2
苦しみの強さは、その人が精神的に弱いがどうかというよりも、亡き人との関係によるのではないでしょうか。夫の暴言、暴力や果てしない介護から開放された人たちは、喪失感を感じながらも、心のどこかで安堵感を覚えることもあるようです。 反対に愛情に満ちた関係であったならば、それだけ死の受容は難しくなり、悲嘆は尾を引きます。それだけ解っているなら、苦しみから早く逃れる方法はないのか、、だれでもそう思います。しかしながら十分に嘆き悲しむ以外によりよい道はないのです。 とはいえ、振り返ってみると「もう帰らない」という受容に向けて後押ししてくれたいくつかのエピソードはありました。
これから私自身と子供たちが通り抜けて来た道、つまり実質的、精神的体験を綴ります。大切なことは、悲嘆の形を知るということです。 「悲嘆を乗り越える」といった表現がありますが、それは困難でしょう。ただ心を整理することはできます。心を整理するためには、やはり悲嘆の姿あるいはプロセスを知るということが大切です。形や大きさがはっきりしないものは、どの引き出しに入れたら よいか判らず、整理のしようがないからです。さてパンドラの箱はすでに開いてしまいました。ありとあらゆる不快な情動が魔性のように飛び出してきます。そして最後に残るのは希望です。

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Page 47
尽きない涙 1
「男の子が泣くものじゃない、泣いていいのは、母さんが死んだ時だけ」私はこうした風土のなかで、実際に繰り返し、そう言われて育ちました。男の涙は弱さの象徴であり、みっともないことなのだ。妻が亡くなった時にも泣いてはいいが、それは目のなかに光る ものがある程度にしなければいけない。ハンカチを手放さないなど、もってのほかである。さすがにここまで先まわりして言われたことはありませんでしたが、そうしたことだったでしょう。
しかし、こうした教育はなんの効果もありませんでした。 人生の困難に遭遇したときの涙は、こらえようがありますが、悲嘆の涙は予告なしに突然やってきます。「お母さんの葬式でいちばん泣いていたのはお父さん」と後に子供にからかわれるほど、確かにハンカチでは間に合わず、ティッシュをポケットにいれて おいたのです。
さて葬儀がすんで五日ほどしてから、私は仕事を再開しました。仕事の時は目の前のことに追われていて、喪失感はあまり感じませんでした。ところが、帰宅しようと自動車を運転して信号待ちをしている時に突然、目の前がにじんで くるのです。とくにマユミのことを思い出しているわけでもないのに、予告なしです。後続の車のフラクションで我に返り、急いで視界を取り戻どすといった感じでした。またある時には家に帰ってやっと風呂につかった瞬間、また一雨くるのです。 夏の夕立のように突然来てはすぐ止む雨で、持続時間は長くありませんでした。しかし、青空から突然大粒の雨が降ってきます。なぜいつまでも、こう涙がでるのか。
心の悪魔がいろいろと、ささやきかけてきました。先が長くないことはずいぶん前から わかっていたはずだし、覚悟は出来ていたはずだ。もう葬儀も終わって一段落したのだから、悲しまなくてもいいのではないか。いったい何が悲しいのか。五十歳の若さで亡くなったマユミの身の上なのか、それともこうして残された自分の身の不遇 か。身の不遇を嘆いているなら、よい人を探して再婚すればいいではないか。妻と別れられずに裁判をする人たちに比べれば、まったく手間もかからず、再婚に対して家族や世間からとやかく言われることもない。もともと印鑑一つ押す前は他人だったじゃないか 。しかし、こうささやかれても何の効果もありません。悪魔も涙に押し流されてすぐ消えてしまいました。

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Page 52
尽きない涙 2
喪明けともなると、家族や親戚の様子も、通夜、葬儀の時の重さはもうありませんし、私もそうでした。しかし、突然の夕立に襲われるのです。
実家についてしばらくすると、米寿になる親戚の伯母さんが来てくれました。 すると伯母さんは、私の横に来て自然と曲がった姿勢で同じ向きになり、私の背に手をあてながら「大変だったね。もうね、どうしたってもどっては来ないのよ。がんばって嫁さんをもらいなさい。」義母たちはおろか、五島に何回も行っている子供たちも理解で きない方言で、諭すようにつぶやきました。
人の心情は幼い頃に育ったその土地の方言で形成されているのでしょう。標準語よりも心に響くのです。私はマユミの死をまだまだ受容できていなかったのでしょう。「どうしたってもどっては来ない」この言葉が 私を大きく揺さぶったのです。これはこの人の心の底から出た言葉だったでしょう。重みを感じました。
長生きするということは、それだけ多くの家族や親類を送り出すということでもあります。思い起こすと、この人は当時二十歳くらいだった長男を、私が まだ子供の頃に亡くし、それから親や儀父母、自分の夫など多くの人を見送り、喪失の悲嘆を味わい尽くしてきたのです。今までは気が付かなかった。そんなことが胸を駆け巡りました。
私も目線の高さをなるべく合わせようと、前かがみで座っていましたから 、涙が目からまっすぐに畳の上に落ちて弾ける音が、しばらく続いていました。やがてお経の一節が心の中で響きました。「死は厭うべきでもなく、涅槃として願うべきでもない」死は単に生きとし生けるものすべてが持つ定めなのだと覚悟して、生と死を 無限に繰り返すこの世を生きるよりほかはない。マユミはもう帰らない。
もう元気になっているだろうと思っていたら、いつまでも涙と縁が切れない私を見て、母はしびれを切らしたのでしょう。「あんたがいつまでもメソメソしていたら、家族や子供たちはどうなる。 立ち行かないよ」。しかしながら、半世紀も前から男がいつまでも泣くなと教育されてきたのに、まったく効果はなかったのですから、今言われても尽きる涙ではありませんでした。

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それからしばらくの間あるいは今も、晴天に入道雲が発生して、突然の夕立に濡れしまう日々が続いたのです。でも私は、人前で涙を流してなくような、弱くみっともない男でよかたのです。妻の死を悼み悲しむことができました。
人の悲しみに寄り添える 医者になれました。それに、あれから歳月が過ぎた今でも、流した涙の痕をたどって、こうしてこの悲しみの世界にもどることができたのです。
もし落とした涙の痕がなければ、長かったこの道を、私は何を頼りに正確にもどることができたでしょう。

Page 66
ガンと闘う
べきかどうか 1
早く決断し手術をして決着をつけたい。もたもたしてるうちに転移したら大変だ。たいていそうした気持ちになります。しかしガンが発生して、すでに十年近く「放置」していたのですから、ひと月やふた月くらい迷っていても、予後にたいした影響は ないだろうと思いました。
それにその場ですぐに決断できるタイプの人の中には、感情を交えず合理的な判断力に優れている人もいますし、反対に問題を抱えておれないだけの、プレッシャーに弱い人もいます。私はどうかと言いますと、プレッシャーに負けて 即断するほうなのですが、ここは負けてはいけないと意識しました。
まずは他の人たち同様に、本やインターネットでの情報収集を始めたのです。中身は、玉石混交ですが、ネット上には乳がんに関する情報が溢れています。 そうして一つの決断をしたのです。それは、このガンは本物で強い、打ち勝つことはできないという認識から始まりました。
格好良くいいますと「硫黄島」の栗原中将と同じ戦況分析でした。ここで一か八かの突撃をしても勝てないし、 転移が出てきた後の治療手段も使い果たして残らない、それよりなんとか長期戦にもちこむ、つまり根治性にこだわるより、ガンを抱えていたとしても元気にできるだけ長く暮らす、そのことを治療選択の指針とするということです。

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マユミ本人も命を終えるにはまだまだ早すぎますし、小学校一年生の子供もいますから、全身をガンに侵されたとしても一日でも長く生きながえることには 十分な意味があるのです。手術の合併症や抗がん剤の有害事象には、ガンそのものへの対処と同じくらい十分な注意が必要でした。
ともかくも私たちのガンとの闘いはこうして、戦略が決まったのです。あとはその戦略に沿って、 戦術を一つずつ考えることにしたのです。勿論マユミも納得してのことでした。ガンの診断をしてくれた女性の医師は、全摘と抗がん剤、内分泌療法の標準治療を勧めていました。
根拠は、治療成績のよさというよりも「そのほうが後悔 がないと思うから」と誠実な答えだったのです。家族をガンでなくした遺族には、受けた治療を後悔する人が結構います。「どうせ助からないなら、あんな苦しい治療をさせるのではなかった」。反対に「まだ保険が通っていない新薬があると いわれたけど、あれを試してみればよかった」。亡くなったという耐え難い事実からスタートすると、どちらにしても後悔につながることを日常の診療でこうして患者さんたちに教えられて知っていました。

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Page 80
ガンと闘う
べきかどうか 2
抗がん剤が効いたのか、併用していた大量ステロイドが効いたのか、活動性は上がりました。その頃に、倒れて入院していた滋賀の義父の容態が悪くなりました。そして彼女は何回か滋賀に通いました。実家までのすべての駅にエレベーターがあるから、 階段を上がる必要がなく支障もないのだと言います。
その年の十月に義父は亡くなりました。実家近くの緩やかな坂が上がれないと言っていた彼女は、葬儀の後も実家に残り、遺産相続の手続きを主導しました。わずかな遺産でも膨大なものでも 手続きは同じですから、自分が亡くなったあとからでは煩雑だと思ったのでしょう。
また実家の二人の幸福を心から願っていたのでしょう。すべての遺産を母と弟に移すよう判を押し続けたのでした。

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実家から帰宅してまもなく、転移を調べるための全身の画像検査がありました。結果を聞きに行くと言っていた日の夜七時ごろに私は自宅に帰ったのですが、明かりがありません。
よく見るとリビングのコタツにマユミが座っています。 電気のスイッチを押しながら、どうしたのと聞くと「全身メタメタだった」と言いながら、腫れた目からはもう涙も出ない様子でした。「メタ」とは、転移を意味する英語の接頭語から取った医療業界の隠語です。
腰椎への転移があったので 、こう奇跡は起こりえないと失望したようでした。「そう」と言いながら私もその場にへたり込みました。しばらくすると彼女は静かに立ち上がり、いつもと同じように夕食の支度を始めたのです。

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Page 88
ガンと闘う
べきかどうか 3
二日の朝に病室に入って声をかけると昨日の笑顔はもうありません。「苦しくてもう二日間も眠っていない。お願い楽にして」。人はいくつになっていたとしても、死の床に就くとやはり思い残すことはもうないという心境になるのは難しく 「夢は枯野を駆け巡る」でしょう。しかし見果てぬ夢や遺される者たちへの思いを断ち切ることはできるようです。
この時、マユミはすべてを断ち切ったと思いました。私はモルヒネの点滴を承諾したのです。午後になり、ゆっくり効いてきたのでしょう、 マユミは少し長く話せるようになりました。そしてこう言ったのです。「モルヒネが入ったので私はもうすぐ眠るでしょう。たぶんまた目が覚めると思うけど、もし覚めなかったらいけないから、一言ずつ言わせて。カッチャン、お母さんをよろしくね。カズヨシさん、 お世話になりました、ありがとう。そして私の母に、お母さん最後まで面倒みてあげれなくて、ごめんなさいね」

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夜に二人だけで過ごしたことがあるシュンやアヤには、すでに話し尽くしでいたのでしょう。それからシュウを近くに呼んで、合掌するように彼の両手を包み込んで顔を見据えて言いました。「シュウ、お兄ちゃんとお姉ちゃんの言うことをよく聞いて 三人で力を合わせて生きていくんだよ」。しばらく沈黙がしたあと「よし力比べをしよう」。マユミは急にハツラツとした様子でそう言いました。
彼女のこれまでにも幾度となく、こうした遊びのなかでシュウの成長を確かめてきたのでしょう。 二人は右手を出し合い、渾身の力で握手を始めたのです。マユミは余裕の顔でした。が、やがてシュウの顔はゆがみ始めました。完敗したシュウは安心したような笑顔で「こんなに強いんだからまだ死なないよ」。思い空気は一瞬にして 変わり、みんな笑いました。しかしシュウが母親と接したのは、これが最後だったのです。

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Page 115
現実を生きる
夕食の用意をしながらすでに缶ビールを飲んでいた私は、食事をしながらまた、日本酒か焼酎を飲みました。食事が終わるころには一日の疲れと安堵感で、後片付けをする気にもならず、そのまま食卓に座り込んで、手元にある酒ならなんでも、意識が もうろうとなるまで飲みました。日本酒換算だと四号、焼酎だと三合、それが私の限界です。それが毎日続き、台所の窓際の床には空き瓶がどんどん増えてゆきます。月一度のビン、ペットボトルのゴミだしの日には、酒類の空き瓶が一杯つまった袋が二つ三つ、家の前に置かれましたから、近所の人たちも、「とうとうこうなったか」と思ったことでしょう。マユミがいた頃は、少し飲みながら本を読む事も珍しくありませんでしたが、もうまったく読む気にはなれませんでした。ただ ぼんやりして飲むか、パソコンの動画サイトを見ながら、でした。ぼんやりしているときは、たいてい悲しみが胸いっぱいに広がってきて、涙が出ることが殆どだったのですが、不思議なことに喪失による悲しみの原因であるマユミに対する怒りや恨みが込み上げてくる 事もあたのです。結婚は愛に始まり後悔、あきらめ、忍耐、いたわりそして感謝で終わるといいます。生前彼女に対して抱いたことがあるすべての感情がよみがえってきて、結婚生活をなぞり直しているようでした。
後悔は、なぜ自分がこんなひどい生活に陥ったのかというところから始まります。すると結論は、マユミとの結婚に行き着きます。順風満帆な結婚生活などほとんどなく、だれでも一度や二度、その人と結婚したことを後悔する時期はあるでしょう。
それが亡くなった今また、湧いてくるのです。結婚前にこの人と結婚して大丈夫だろうかと、小さな不安を感じたあの時に踏み留まっていれば、あるいはあの時に離婚していれば、といった思いです。怒りは、子供のしつけができていなかったことです。彼女まかせ にしていた自分は棚の上に置いて、もう少し、身の回りができてもう少し親の言う事を素直に聞ける子供に育ててくれていれば、自分はこんなに苦労しなくてすんだのにと言った具合でした。

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やっと見つけた流木のような後悔、怒り、恨みといった感情にしがみついて喪失感から抜け出そうとしても無理です。そもそも「結婚生活がしあわせだったからの悲嘆」だからです。それに加えて、それらは突発的で強い感情ですが、持続力がありませんから 、すぐ悲しみの海に呑まれて沈んでしまうのです。やがて酔いつぶれて、二階への急な階段の手すりをつかんでやっと上がり、ベッドに倒れこむ毎日でした。
悲嘆の中の生活は、このような「悲惨な生活」でもありました。週に何回かでも家政婦さんに入ってもらったら、とアドバイスしてくれる人もいました。しかし、私たちが通り抜けなければいけなかったのは、家事ではなくて、喪失による悲嘆そのものだったのです。

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Page 112
遺品の
整理
洋服と履物を手分けして袋に詰めると、玄関周りは山になり、対照的にクローゼットとタンスは私の物がわずかに残っただけで、すかすかになりました。マユミがもう一度去ったような寂しさです。遺品の整理は、こうして私たちに死の受容をゆっくりと迫ってきます。
もし母が先導してくれなければ、私たちはもう持ち主がいない洋服類を、自分たちの生活の不便さを犠牲にしてでも、永遠にそのままにしていたことでしょう。そうなると自宅が霊場になってしまします。そして「もう帰って来ないのだ」という気持ちになれず 、悲しみや無気力を長引かせることになったはずです。
私の母というよりも、年寄りほど多くの身内を見送ってきていますから、悲しみの断ち切り方や、生きている親族の気持ちの建て直し方を経験的に知っているのでしょう。その一つが、形見として 引き取り手のない衣服は、抱えきれない悲しみとともに処分するということだったのです。

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Page 158
死生観 1
つまり生から死へのながれは、無理のない自然な移行なのです。私はそのつかの間の奇跡を喜び歌おうと思っているだけで、なにも世捨て人ではありません。これが今のところの私の生死感であり、また私の知性の限界でもあります。 今のところとお断りするのは、これから年齢を重ねて死期が身近になると、生死感が変化する可能性があるからです。マユミや父、それから義父を亡くすまでは、こうした生死感だけの単純なものでした。彼らを相次いで亡くしたあとの変化は やはり喪失感が影響しているのでしょう。このまま生きてゆくには傷み過ぎた肉体を脱ぎ捨てて自由になり、みんなどこか知らないところへ行ったのです。そう思うようになりました。
こうした考えは、無理にそう思い込もうと思って形成されたものではなく、ある時期に自然に腑に落ちてきました。思い込もうとしてそう思えるなら、喪失による悲嘆で苦しむ人はいないでしょう。では彼らはいつ旅立ったのか、それは医師が臨終を 告げるよりも早い時期だったのかも知れません。手がかりはあります。
マユミが亡くなる四時間ほど前に私は病室に入り義母と看病を替わりました。そのときマユミは目を開けしっかりした口調でこう言いました。
「食べ物もおいしいし、水もおいしい、いいとこやわ、ここは」私は、彼女の親や友人から遠く離れた福岡に 彼女を連れてきたことを、今となっては少し、後悔していましたので、免罪符を得るように「ここって、福岡?」と尋ねました。すると返事は無く、、表情も変わらないままでした。それから横になりたいというのでそうして、義母を送りました。 義母もこのとき、変なことを言うな、と思ったそうです。医師の目からみると、これはモルヒネによる多幸感、幻覚なのかもしれません。しかし、そうだとしても、もう違う世界にいたのです。

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それよりもひと月前の父の通夜の夜、マユミは実家の玄関で住職を迎えていました。住職は、正座して静かに微笑むマユミを見た瞬間、驚きを感じたそうです。思えばあの人は、あの時すでに仏様になっていたと、マユミが亡くなった後に話していました。

Page 168
死生観 2
命は短い。しかしこう言われると、たいてい、「いや長い」あるいは「暗い話」と、反論するか、話題を変えようとします。そして永遠に生きるかのように時間は浪費されてしまうのです。ところが、連れ合いを亡くすと、命の短さを明確に実感します。 そして自分がもし運よくガンで死ぬとして、「余命三ヶ月」と宣告されたら、どう生きるのか、心静かに考えてみる機会を彼女は与えてくれたのです。
もう一つ教えてくれたことは、死別による悲嘆そのものです。私は入院ベッドを持たない開業医ですが、末期 ガンの人を診察することはあります。そうした時に死に直面した本人の心理には気が向きますが、亡くなったあとの遺族の悲嘆には無頓着でした。
もちろん悲嘆にくれることは理解していましたが、それは葬儀あたりがピークだろうと言った感覚だったのです。 むしろ葬儀のあとから「内なる喪失」が始まろうとは、思いもよりませんでした。
しかし、マユミは三十数年も前の看護学校で勉強したのか、それとも直感かはわかりませんが、悲嘆の長さと頑固さを知っていたようです。全身転移がわかり、もういよいよ と覚悟した頃に、友人に繰り返し話したといいます。「自分はこの世から消えて何も知らないからよい。苦しむのは家族なのよ」

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その頃にいろいろな話の流れでのなかで、私は彼女にこう言ったことがあります。「あなたが居なくなったら、アノヤロー、男を作って逃げやがったと思うことにする。そうすれば悲しくはないだろう」。重い話の間の冗談のつもりだったのですが、彼女に笑みはなく、真剣な 顔で彼女はこう答えました。「頼むからそうして。一番苦しむのはあなたよ、よい人がいたら再婚したらいいよ。若い人と結婚して赤ちゃんができたら、きっと可愛いと思うよ」。彼女はこういい終わって、やっと笑顔になったのです。
もう終わろうとしている自分の命よりも、遺される私の悲嘆を案じ、その対処法まで示唆してくれました。彼女が予見したとおり、私は自分が思っていたよりは悲嘆を味わい尽くしたのです。
私は悲嘆ケアについての学術的な知識はありませんから、同じような境遇にいる方々にアドバイスのようなことは何も言えません。ただ自分自身の悲嘆を身の上話のように、こうして書き著すことができるだけです。これを読んだ方が、もし一人でも 癒されるなら、それは彼女の仕業かもしれません。彼女は働きものでしたから、今も遠いところから私を介在して人々を看護しているのでしょう。

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Page 190
死別後を生きる
喪失初期のパニック的な悲嘆が収まった後の持続的な悲哀の期間は、まるで梅雨のように、中休みを伴いながらも永遠に続くかに見えました。しかし止まない雨はないようです。死別後一年半くらいした頃から、ただなつかしく涙なしに妻を思い返せる ようになっていました。
いわば交響曲「喪失」の第一楽章「悲嘆」がこの時期に終わったのです。悲嘆は死の受容で終わるといわれますが、それは繰り返すように、現実の世界にはもういないということです。この世にいないことが信じられない「否認」 どうしてこうなったのかという「怒り」目の前のもどしてくれれば何でもするという「取引」、しかし願いはかなわない「抑うつ」。これらを繰り返しながら「受容」で終わる。これは交響曲「喪失」ではなくて、あくまで第一楽章「悲嘆」にすぎません。

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悲嘆を終わらせるには、十分に嘆き悲しむことだとロス(エリザベス・キュブラー・ロス博士)は言います。すなわち否認や怒り・それから取引・抑うつ。これらは鳴り響くがままにしておかないと、第一楽章は終わらないのです。
交響曲を聴いてシンバルがうるさい、バイオリンの音が陰気だと騒ぐ人はいません。しかし「喪失」の経験も、それに対する知識もなければシンバルやバイオリンを止めるかのように、否認や怒り、それから取引、抑うつといったものを、その場にそぐわないものとして 自ずから止めようとしたり、また人の悲しみに静かに寄り添えないまわりの人からそう促されたりします。
これでは第一楽章は無残なものになり、第二楽章には進めなくなってしまうでしょう。

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Page 235
おわりに
人生には上り坂、下り坂の他に「まさか」というのがありそうですが、私は、その「まさか」を転げ落ちてしまいました。そして、もう存在しない元の道にもどろうともがく様子をこれまで述べてきまいた。伝えたかったことは、私は、こんなに大変だった、あるいは 頑張ったということではありません。「まさか」に足を取られると、だれでも嘆き悲しみそして苦しむのだ。だからあなたも、つらいのなら泣いてもよいのだというこです。
しかし世間には、巧みな詭弁が残っています。つらいのはあなだだけではない。だから泣くな、 という論です。確かに、すべての夫婦の行く末は死別です。逃れる方法は三つ、離婚か事故死、あるいは心中でしょう。それらを避ければ、夫婦のうちどちらかが必ず悲嘆を経験します。内訳は男ヤモメが二割で、女ヤモメが八割と集計されています。
「私だけ」あるいは「あなただけ」ではありません。ここまでは間違いありません。しかし、それに続く「だから泣くな」これが詭弁です。「誰もが経験する」という事実と「泣くな」という結論を、「だから」で結ぶには書籍一冊分くらいの説明が必要でしょう。
けっして自明ではありませんから、「だから」は詭弁なのです。複雑な思考が介在するはずなのに自明のことと思うのは、「洗脳」が残っているからかも知れません。---中略---もし悲嘆の中にあるなら、男だって泣いて悲嘆を消化したってよいのです。
亡き人への怒りや恨みつらみを感じたとしても、それも悲嘆の一部であり、不道徳なことではありません。死別という災難を避けることは出来ませんが、あるがままに十分に嘆き悲しむことで、それに続く悲嘆という二次災害に対処することはできます。思い返せば 人は同じような悲嘆のプロセスを通過するということは、興味深い驚きでした。私たちは尖ったものに触れると痛みを感じますし、氷を触れば冷たく感じます。これは再現性がある感覚です。 皮膚から脳幹までの神経伝達システムが一様に備わっているからで、そのメカニズムもほぼ解明されています。

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しかし、悲嘆は情動ですから、感覚とは異なります。情動は中枢神経上位の大脳皮質の機能によるもので、個人差が大きいと予測されます。家族と死別すれば、悲しむという部分が共通であることは、だれでも知っていますし、「感覚的」 に理解できます。
ところが、それに続く数年にも及ぶ長期的な悲哀と回復の過程が、人種や宗教を超えてほぼ同じであることに驚きを覚えます。悲嘆のプロセスが似通っているということは、一度経験すれば免疫のようなもの ができているはずです。この免疫は、残念ながらこれからも幾度かやってくるであろう自分自身の悲嘆と向き合う時の助けになるでしょう。
また心の泉に似たような像が結ばれているはずですから、悲嘆の中にいる身近な人に 寄り添うこともできるでしょう。免疫があれば何も感じないというわけではありません。ただ重症化せず発熱くらいで回復できるはずです。
こうしたことを繰り返しながら、よく働きまた人生を楽しみ、これまでの話と矛盾するかに 思えますが、いつしか「死を恐れない、悲しまない」人になりたいものです。「死を恐れない、悲しまない」は、実は釈迦と同じ境地すなわち「悟り」です。

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この境地は国家体制に強要されて、あるいはあやしげな宗教に近道切符をもらうなどして到達できるものではありません。自らの足で辛苦を超えた者たちが、研ぎ澄まされた第三の目で見つけて、やっとたどり着く境地なのでしょう。 ここに至れば、もう人間卒業です。亡き人たちは、きっと人間を卒業したのでしょう。私もいつか、時間切れ退学や除籍ではなく、卒業証書を手にしたいと思っています。
でも、蓮の花が咲くところはすぐ退屈するそうですから、そこはやめておきます。いっそ仙人にでもなって、老・病・死を繰り返し変わる事がない人の世を眺めながら、酒でも飲みたいものです。その節は、ぜひお立ち寄りください。杯を 交わしましょう。

出版関連の方へ 当サイトにて、運営者情報が購読した書籍の一部分をグリーフケアの一環として引用掲載させていただいております。万一、著作権等におきまして問題の場合はご一報頂ければ関連部分は即刻削除させて頂きますのでご連絡をお願い致します。
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