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書籍から喪失を学ぶ

著者から喪失に対する考え方や勇気を学んだ本のご紹介。

永遠の別れ

タイトル 永遠の別れ---悲しみを癒す智慧の書
著者 エリザベス・キューブラー・ロス / デービッド・ケスラー 共著
著者経歴
 出展
ウィキペディア
エリザベス・キューブラー=ロス(独:Elisabeth Kübler-Ross、1926年7月8日 - 2004年8月24日)は、死と死ぬことについての画期的な本(『死ぬ瞬間』,1969年)の著者として知られる精神科医。 著書において、彼女は初めて今日では「死の受容のプロセス」と呼ばれている「キューブラー=ロスモデル」を提唱している。まさに死の間際にある患者とのかかわりや悲哀(Grief)の考察や悲哀の仕事(Grief work)についての先駆的な業績で知られる。
翻訳 上野 圭一
出版元 日本教分社

喪失に対する考え方や勇気を学んだ内容のご紹介

Page 43
怒り
人生は不公平だ。死は不公平だ。怒りは喪失という不公平に対する自然な反応である。ところが不幸な事に、友人や家族などの理解をとりわけ必要としているまさにその時に怒りは彼らを遠ざけてしまう。 怒りが自分自身に向けられると、罪悪感を感じることになりがちだ。しかし、そのことで責められるいわれはない。喪失という現実を変えることができるのならそうするに決まっているが、それは出来ない相談なのだ。 怒りが執拗に確認したがっているのは、自分にはまだ感じる能力があること、自分はたしかにその人を愛したということ。そして自分は確実にその人を失ってしまったということである。
Page 50
抑うつ
「この抑うつ的な段階」は永遠に続くように感じられる。しかし、この抑うつはけっして精神的疾患の兆候ではないということを理解する必要がある。それは大きな喪失に対する適切な反応なのだ。
Page 57
人生再構築
われわれは今、愛する人が失われたこの世界で、勇気をふるって生きていかなければならない。はじめのうちはこの新しい規範に抵抗して、愛する人が生きていた時の生活を何とかして維持したいと願うかもしれない。しかし、やがて少しずつ現実を 受容することを通じて、過去をそっくりそのまま維持することなどできないのだと理解し始める。現実は永久に変わってしまった。だから再構築しなければならない。さまざまな役割を再組織化することを学び、その一部をだれかに任せ、他の一部を自分で引き受けなけ ればならない。愛するひととの結びつきのなかで自己のアイゼンティティが形成されている部分が多ければ多いほどその仕事は難しいものになる。

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Page 82
後悔
しかし、治せる病気と治せない病気のあいだには本質的な差があり、その現実を知ることが後悔への解毒剤になるのだ。ほとんどの場合、別の方法を選んでいれば事態の変化に影響は与えたかもしれないが、それで死が避けられたわけではないというのが 真実であるといわなければならない。可能な限り悔いる気持ちと和解することに最大限の努力を払っていただきたい。人生において、願望がすべてかなえられるのは非現実的だ。おなじように、完璧でありつづけること、後悔しないこともまた非現実的である。 後悔する自分を許すことだ。もっと良い選択をしていればよい結果が得られたと考えるのも真実とはいえない。あのときのあなたは、最善をつくしたのだ。
Page 87
われわれは涙が弱さのしるしであり、石のように無表情の顔が力のしるしだと考えるような社会に住んでいる。泣くか泣かないかは喪失体験の本質よりむしろ、その人がどんな育ち方をしたかとかかわるものである。 泣いてもいいと教わって育つ人もいれば、泣くことを禁じられて育つ人もいる。ひとりで泣くのはいいが、人まえで泣くのはいけないと考えてる人もいる。どんな育ち方をしていようと、愛する人を失う体験はそもそも平衝が破られた状態であり、 自分でも驚くほどの涙をもたらす体験なのだ。
Page 92
長いあいだ涙をこらいえているよりは、泣いたほうがずっといい。あなたに代わってだれかが泣くことはできない。あなた自身が泣き、涙を流さなければならない。だれかが泣いているのを見て自分も泣き出すことがあるが、それは他者の悲しみが ひきがねとなって自分自身の内部にあった悲しみが喚起されるからだ。自分自身のためではなく、なんらかの状況を悲しんで泣きたくなることがあるかもしれないが、それでも泣くという行為は自分自身のためになされているものである。

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Page 104
面影
亡き人の声がきこえる、姿がみえる、ことばがこだまする、ときには手をふれられたような気がするなど、そうした「面影」にはさまざまなタイプがある。現在のできごと、過去のできごと、将来に起こってほしいと願っているできごとなどが、 面影のように執拗につきまとって離れないこともある。歓迎すべきものであれ、不安を感じさせるものであれ、そうした特異なできごとは喪失体験の無視できない一部である。
Page 113
遺族への思いやり
ある追悼の式典で、牧師が会衆にこういった。「みなさんは愛する人を失いましたが、故人がもっていた美点を失ったわけではありません。それはみなさんのなかに生きています。みなさんは生涯、その美点をもって生きていくことができるのです。」 そして、牧師は会衆に難題をつきつけた。「ここにお集まりの皆さんはすべて、残された未亡人の友人です。故人がもっていた美点の最良の部分は彼女の中で生き続けるとはいえ、彼女のご主人が担っておられた実質的な役割や課題は中断されました。 自分はこれを引継ぐと公言することもなく、また、自分はなにをひきつげばいいのかと問うこともなく、ただ、黙々とひきついで下さい。今日の午後にも未亡人をの家をたずねて、ききただすようなことはしないでください。自分にできることをちゃんとやったか 、それを静かに自省してください。この先ずっと、どうしたら彼女の手助けができるか考えましょう。それが彼女への最良の贈り物になるのです。」

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Page 119
喪失を語る
悲嘆や喪失が過小評価されている現代社会では、その体験を語る手段がだんだん少なくなっている。しかししずれは、体験を語らずに胸にしまっておくのもけっして楽なことではないとわかるときがくるだろう。心配してくれている親友に「大丈夫だよ」 といってつよがってみても、あとでつらさがますだけだ。自分の物語を語ることは内的欲求にしたがうことであり、黙して語らないのは不自然である。語られる内容は苦悩、ときにはひとりの人間には背負いきれないほどに重い苦悩であるかもしれない。その物語を だれかに語り、苦悩の一滴一滴をきき手に共有してもらうことによって、われわれは少しずつ苦悩を軽減していく。
Page 121
過失
自分のせいでこうなったのだと思い悩むときがある。自分はその場にいた。そこで起こった事を残らず目撃している。いくら考えてみても、自分がなんとかしてれば、こんな事態にはならなかったはずだとしか思えない。 しかし、たったひとつのものごとが起こるときでも、背後ではあらゆるできごとが複雑にからみあっているものだ。たとえば、亡き人のがんはもっと早期に発見できたかもしれないが、われわれはふだん病気探しに血眼になって暮らしているわけではないし、 いまの医療体制も予防医学を基本とするものではない。ものごとはだれかひとりの、またはなにかひとつの原因で生じるものではない。
Page 142
死生観
悲嘆のプロセスにおいては、そうあるはずだと感じていた人生の喪失を悼むことに時間をかける必要がある。「悲劇は誰かにではなく、ほかならぬ自分に起こったのだ」という事実をみつめることによって、喪失を受容する必要があるのだ。「なぜこのわたしに?」 という問いと共にいきることに、しばらく時間を費やしていただきたい。やがて、「なぜ悲劇が自分に起こらないと信じていたのか?人生につきものの喪失から、なぜ自分だけが除外されていると思っていたか?その思い込みが間違っていた」と 考えられるようになるかもしれない。それが答えのひとつである。

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Page 149
孤独
孤独は必ずしも人生の障害にはならない。むしろ、それは人生に不可欠な共通点であると考えたほうがいい。そろそろ孤独からぬけ出してもいい時期だと感じたら、起こすべき行動にはつぎのようなものがある。 友人に電話をかけて、なにかいっしょにできそうなことを考えだす。絵を描く、庭仕事をする、散歩をするなど、孤独でいながら活動できることを始める。自然をながめ、自然に手をふれることでも、たましいが癒されるはずだ。
Page 157
懲罰意識
「もっと善行を積んでいれば、こんなことにはならなかったかもしれない」「自分は欠点だらけの人間だが、こんな罰を受けるほどの罪は犯していない」そのとおりだ。罪など犯していない。われわれは「正しく生きていれば苦しむことにはならない」 という合意のもとに生きている。しかし、人間が生きるということは、死を知るということだ。つまり、愛するということは、最終的には、手にしていた愛という恩恵を失うことなのだ。ある人にとっては、罰という概念は宗教から教えられたものであり、 罰するのは神である。行為には結果がつきものだ。しかし、カウンセラーとしてのわたしたちは、喪失が罰として与えられたものだとは考えていない。愛する人を失ったとき、われわれは自分が犯したちょっとした過ちが大きなものにみえ、 罰せられていると感じてしまいがちだが、大いなる愛の源である神がわれわれにそのような苦痛を授けるはずがない。生のあとには死がやってくるが、罰はけっして神が愛のために与える結果ではありえない。
Page 325
急死
その死がとつぜんであればあるほど、残された人が喪に服する期間は長引く。別れを告げるいとまもなく、その人なしの人生を想像する余裕すらなく愛する人に急死されたとき、残された人の「否認」の段階は長期化して当然である。なんの前兆もないまま にいきなり底なしの喪失と直面し、葬儀の準備をしなければならないのだ。

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訳者あとがき ふたりの著者は「悲しみぬことこそのものに癒す力がある」と指摘しています。最愛の人を失い、自分も生きてはいけないと思うほどの深い悲しみに襲われても、その悲しみを「悲しみぬく」ことができれば、こころの傷は必ず癒えるものだというのです。 逆に言えば「悲しみぬくことを自分に許さなかった人」は、いつまでたっても悲しみからぬけ出せずに、つらい人生を送ることになるということです。して、悲嘆や涙を抑制することが大人のふるまいであるとする現代の社会には「悲しみぬくことを自分に許さない」人が たくさんいて、癒されることのない悲嘆から心身の病気や社会への不適合が生じているという事実も、著者たちは指摘しています。悲しみぬくことは、亡き人を忘れてしまうことではありません。二度と喪失の苦しみに襲われない、強い人間になることでもありません。 病気を「克服」するのではなく、病気とともに生きたときにいのちの力で自然に病気が癒えるように、愛する人の喪失に「打ち勝つ」のではなく、その人の死という現実を「受容」して、喪失とともに生きることを学ぶのです。そうすれば、こころの傷は自然に癒え、 苦しんできた喪失の記憶のまわりに、新しい自分が再建される。愛する人といっしょに生きていた時期の自分と、愛する人を失ったあとの自分はおなじ「自分」ではない。愛する人がいないまま以前の自分にもどるのではなく、愛する人の死という苦い 経験を持った「新しい自分」に成長して、再び歩きだすのだと著者たちは言っています。
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